晃一の心の時間

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コロナはただの風邪じゃない。父の最後と集中治療室。

こんにちは、晃一です。

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こちら、病院の集中治療室の様子です。

写真に写っている男性はコロナウイルス肺炎により重体に陥り、人工呼吸器をつけている僕の父です。

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そして、これは僕と父。

決して記念写真を撮っている訳ではありません。

ビデオ通話で他の家族と一緒に「頑張って」と応援しているのです。

なぜ僕が、コロナウイルス患者の集中治療室にいるかって。

それは僕自身がこの写真の一週間前までコロナウィルスで入院していたからです。

僕と妻と娘がコロナウィルスに感染したのは2020年3月中旬~下旬。

まだコロナウィルスが日本でそれほど広まっていなく、僕は完全にコロナを舐めていました。

「まだ日本にはほとんど無いだろう」「簡単に感染しないだろう」「かかっても治るだろう」

そんな風に考えていました。

マスクもせず家族で呑気に買い物に行き、妻と妻の友人たちを中心にしたバーベキューパーティーに僕も参加しました。

中には外国人のメンバーもいました。

不安な気持ちがあったのにも関わらず、このバーベキューパーティーを中止にできなかった僕の心弱さを今でも後悔しています。

ただし、そのバーベキューパーティーのメンバーで僕と妻以外は全員陰性でしたので、感染場所は他だった可能性も十分にあります。

3月下旬のある朝、僕と妻は体調が少しおかしいとお互い感じました。

のどの痛みや僅かな倦怠感があり、そして夜になる頃にはお互い発熱していました。

「万が一コロナだったら0歳の娘が危ない」

そう思い、僕の実家に娘を預けて妻と二人で救急外来へ行きました。

娘を預けている間、父は「この子だけは絶対に守らないといけない」と必死に面倒を見てくれました。

緊急外来に診察に行った僕と妻、今でも忘れません「感じからしてコロナではないです。今全然日本で流行っていませんからね」

と言う半ば「追い出し」にも感じるような診察、診断を受けました。

コロナではないと診断されてしまったため、その後は娘を実家に預けたまま家で療養していました。

家ではインフルエンザの酷い時の様な熱(39~40°)が出たり、退いたり、退いてはまた寒気がして発熱と言うのを繰り返していました。

この様な体の調子ですから、「ただの風邪ではない」と確信しました。

その後、別の病院で診て貰いましたがそこでも「コロナではない」と診断されました。

しかし、「高熱が出て一旦治まり寒気がしてまた高熱」と言う症状は一向に治まりません。

僕はその時、正直死ぬかもしれないと思いました。発熱を繰り返し頭痛も酷かったです。

ただその時、不思議と恐怖などは感じませんでした。

妻はインフルエンザの薬を飲んでいたためか、体質的な物なのか分かりませんが、僕よりも軽症でした。そのため僕を病院まで連れて行ってくれるなど的確に世話をしてくれました。

3度目の病院で僕はようやく肺のレントゲンを撮るに至り、そこで異常がみられ指定病院で再検査し、陽性と診断されそのまま入院しました。

やはりコロナでした。

入院して次の日、妻と娘と父も陽性で入院する事になったと聞かされました。

僕はその時、何もかもが終わったと思いました。

何も考えれず、メンタルの弱さから一時は妻にその怒りの矛先をぶつけました。

入院から一週間ほどで僕の熱は下がりましたが、僕の場合は肺炎症状も出ていたので呼吸がしばらく苦しかったのを覚えています。

パルスメーターで測る酸素濃度が少し下がっていて、鼻から酸素のチューブを着けていました。

動けるようになって久しぶりにシャワーを浴びたのですが、息苦しくて吐きそうになってそこでも死ぬかと思いました。

しかし、僕の症状はそこから改善に向かい退院する事が出来ました。

そして妻も退院、娘も退院しました。

娘に至っては生後6か月未満と言う事で「母親からの免疫」が幸いしたのか、無症状ですみました。

このまま父も退院してくれれば・・・

そう思っていたのですが、父の容態はどんどん悪くなっていきました。

酸素濃度が低下し、日に日に危険な状態になって行ったのです。

とうとう隔離病棟から集中治療室で人工呼吸器をつける事になりました。

人工呼吸器をつける前にほんの少しだけ父と電話しました。

「証券の事などを伝えておきたいのだけど、もう余裕がないから…」

これが僕と父の最後の言葉になりました。

こんな時にまでお金の心配するなよ・・・そう思いながらも「父さん、待ってるから。」と伝えて電話を切ったと思います。

数日後「大変危険な状態です。最悪の事態を覚悟しておいて下さい」と病院側から連絡が入りました。

別れになるかもしれないと言う事で、コロナ感染経験者の僕は特別に中に入れてもらえました。

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ビデオ通話で他の家族とも繋ぎ、お父さんを応援しました。

「愛している、絶対帰ってきてくれ」「初孫だってできたばかりじゃないか。これから孫と遊んでやってくれよ。」「お父さんの様な優しい人は生きてもっと楽しい思いをせなアカンよ」など何度も強く呼びかけました。

もちろん返事はありません。指が微かに動きました。

「お父さん愛してる、待っとるからね。」こう言ってその日は病室を後にしました。

次の日の朝「心拍が無くなりかけているので最後のお別れに来ても大丈夫ですよ」正式な言葉はちょっと覚えていないのですが、この様な事を言われ病院に行きました。

「お父さん、もうダメなんか?苦しい思いさせてごめんね。」

「いつまでも子供のままでお父さんに甘えてばかりでゴメン」

「僕は孫を理由にしてもう一度子供の頃の様にお父さんと遊びたかった。」

「お父さんみたいな優しい人は絶対に天国で楽しく暮らすんだよ。」

「最高のお父さんありがとう」

「またいつか一緒に散歩してね」

そして父の心拍は停止しました。

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優しかった父、家族を支えるために多大なストレスを抱えて仕事を続けていました。そのため晩年には精神を病んでしまい家に籠りがちでした。

基本ずっと優しいので、反抗期の頃はそんな父を知る由もなく甘え、困らせていました。

きっと職場でも辛い仕事を引き受ける事が多かったのだろうと思います。

こんな優しい人が最後まで人のツケを払う事になってしまいました。

とにかく僕はそう言った全てが納得できませんでした。

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父は頭も良く優しく、良く遊んでくれる人でした。

無駄遣いもせず、酒もタバコもキャンブルもしない。とても家族思いの人でした。

優しいから母からキツく扱われる事も良くありました。

大人になってからの僕は「浮気の一つでもすれば良いのに」と思っていたほどです。

父の人生、幸せだったのだろうか?楽しかっただろうか?

今でも考えます。

僕の予定では娘を散歩に連れて行ってもらい、ウハウハなおじいちゃんで余生を過ごしてもらうつもりでした。

父に心配や苦労をかけさせた唯一の罪滅ぼしとして。

大人になっても中々社会に馴染めずに金銭的に苦労する僕をいつも心配して助けてくれました。

ブログやyoutubeを始めたのも「労働収入だけじゃ厳しいだろ?ブログやyoutubeでも試しにやってみたらどうだ。」

と言う父の言葉がきっかけです。本人はそんな風に言った事を忘れていましたけど。

父は「何事も無かったかのように前の生活に戻ってほしい」と望んでいました。

それに親族に迷惑が掛かってもいけないと思い、この事を今まで発信していませんでした。

だけど僕は毎日、心にハリが刺さったままの様な気持ちで生活しています。

この事を発信せねば、僕はこれから前を向いて歩けないような気がしたのです。

人を恨まないで下さい。

医療関係の人たちは命がけで頑張ってくれています。

コロナウィルスに出来る限りの警戒をして下さい。

弱い者、優しい人が犠牲にならない世界にしたいです。

生きているだけで結構素晴らしい物です。

そして、コロナはただの風邪じゃありません。

ご観覧ありがとうございました。